今、「100の思考実験」という本を読んでいる。哲学的な思考実験の例が100個ほど記載されており、色々考えさせられる。決して結論が書いているわけではないから、それで?と思う人もいるかもしれないが、自分は深々と考えてしまう。オススメの本。
今日は、この本の思考実験の中に面白い思考実験があったので、一つ紹介したい。
簡潔に書きたいので、余計な部分を省略し、要約て書く。
<思考実験の話>
その宗教の信者たちは、外の世界とは隔離され、暮らしていた。教祖以外は外の世界と接触を一切禁じられていた。隔離された施設内で、唯一観る事が許されていたテレビ番組がメロドラマだった。メロドラマの中の世界こそが現実だと教えられていた。
ところが、ある日、その宗教団体の方針に反抗的だった一人の信者は、こっそり施設を抜け出し、外の世界へ出る事に成功する。そして、彼はそのメロドラマの場所を訪ねてみることにする。そこで、彼が驚いたのは、メロドラマにある現実だと思い込んでた街は、スタジオの中にあった単なるセットだという事だった。彼は驚き、施設に帰った後、他の信者たちにその事を話すと、狂人扱いされてしまう。他の信者たちは「ここを出たのが間違いさ」「外は危ないからね」と言い、彼を施設から追放してしまった。
<終わり>
この本の著者によれば、この思考実験の解釈には、「信者たちが外の世界から隔離されている施設」が何を意味するかが重要になるという。例えば、我々は、日々、知らぬ間に自分自身の経験の幅を狭めている。もし意見を同じくする人としか話をしないのであれば、自分の狭い世界の周りに垣根をこしらえてしまうことになる。つまり、外の世界をみようとしなくなる。
*これは何か一つの視点にこだわりすぎて、他の視点で物事が考えられなくなる状況に陥るという事だと自分なりに解釈した。
そして、重要なのは、外の世界をみようとしなくなった時、施設の外へと出て行った一人の信者の様な人物が現れたら、彼の様な発言をどう判断するだろうかという事。著者の言葉を借りれば、彼を「おかしな世界観を持った愚か者と、それまで誰も目を向けられずにいた人生の側面を正しく見いだした人とを、どうやって区別すれば良いのだろうか」。
この思考実験から個人的に学べる事は、同じ考えを持つ者同士で話す事は、心地がよく、楽しいし、安心できるが、それだけでは、完全に井の中の蛙になってしまう可能性もあるという事だと思う。それでは、異論にまったく耳を傾けなくなるかもしれないし、自分たちの世界が正しいと信じ込んでしまう。つまり、施設の中の信者になってしまう。
社会でも、それは当てはまると思う。自分の会社で、正しいことは、他の会社で普通だと思ってしまうかもしれない。実はそうでないのに。
これに対する解決先は何か。思考実験の例と取れば、私が施設の中の信者の一人で、現実だと思っていた世界が実はスタジオのセットだと聞かされた時、その異論を安易に否定せず、信じるかは別として、受け入れる。そして、可能であれば、自分の目で見て、確認する。そういう姿勢が大切なのではないかと思う。
世の中の本質を知る上で、安易に他人の意見を否定せず、敢えて自分と異なる意見を持った人と話す事、それが大切なのかもしれない。
今日は、この本の思考実験の中に面白い思考実験があったので、一つ紹介したい。
簡潔に書きたいので、余計な部分を省略し、要約て書く。
<思考実験の話>
その宗教の信者たちは、外の世界とは隔離され、暮らしていた。教祖以外は外の世界と接触を一切禁じられていた。隔離された施設内で、唯一観る事が許されていたテレビ番組がメロドラマだった。メロドラマの中の世界こそが現実だと教えられていた。
ところが、ある日、その宗教団体の方針に反抗的だった一人の信者は、こっそり施設を抜け出し、外の世界へ出る事に成功する。そして、彼はそのメロドラマの場所を訪ねてみることにする。そこで、彼が驚いたのは、メロドラマにある現実だと思い込んでた街は、スタジオの中にあった単なるセットだという事だった。彼は驚き、施設に帰った後、他の信者たちにその事を話すと、狂人扱いされてしまう。他の信者たちは「ここを出たのが間違いさ」「外は危ないからね」と言い、彼を施設から追放してしまった。
<終わり>
この本の著者によれば、この思考実験の解釈には、「信者たちが外の世界から隔離されている施設」が何を意味するかが重要になるという。例えば、我々は、日々、知らぬ間に自分自身の経験の幅を狭めている。もし意見を同じくする人としか話をしないのであれば、自分の狭い世界の周りに垣根をこしらえてしまうことになる。つまり、外の世界をみようとしなくなる。
*これは何か一つの視点にこだわりすぎて、他の視点で物事が考えられなくなる状況に陥るという事だと自分なりに解釈した。
そして、重要なのは、外の世界をみようとしなくなった時、施設の外へと出て行った一人の信者の様な人物が現れたら、彼の様な発言をどう判断するだろうかという事。著者の言葉を借りれば、彼を「おかしな世界観を持った愚か者と、それまで誰も目を向けられずにいた人生の側面を正しく見いだした人とを、どうやって区別すれば良いのだろうか」。
この思考実験から個人的に学べる事は、同じ考えを持つ者同士で話す事は、心地がよく、楽しいし、安心できるが、それだけでは、完全に井の中の蛙になってしまう可能性もあるという事だと思う。それでは、異論にまったく耳を傾けなくなるかもしれないし、自分たちの世界が正しいと信じ込んでしまう。つまり、施設の中の信者になってしまう。
社会でも、それは当てはまると思う。自分の会社で、正しいことは、他の会社で普通だと思ってしまうかもしれない。実はそうでないのに。
これに対する解決先は何か。思考実験の例と取れば、私が施設の中の信者の一人で、現実だと思っていた世界が実はスタジオのセットだと聞かされた時、その異論を安易に否定せず、信じるかは別として、受け入れる。そして、可能であれば、自分の目で見て、確認する。そういう姿勢が大切なのではないかと思う。
世の中の本質を知る上で、安易に他人の意見を否定せず、敢えて自分と異なる意見を持った人と話す事、それが大切なのかもしれない。
1 件のコメント:
たしかに
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